橋というものは不思議な装置です。不可能を可能にする装置。単に距離を縮めるだけのものでなく、いわば相対的なものでなく、絶対的な装置の一つなのです。
それだけにヒトは橋を架ける行為に昔から夢や情熱や最先鋭の意識と技術を投入してきました。社会学者ジンメルはその著述の中で「単に空間的に隔てられているだけでなく、向こうとこちらが分割されていると感じる能力が橋を生み出す。両側に分けられているという自覚が、これを結びつけようという意思になる。それは人間に固有の作業である」と述べています。さらに「ただ実用をみたすばかりでなく、直観に訴える具象として美の対象になる」とも。
東京・墨田区と台東区をわたす7橋のうち、いちばん北に位置し、ひときわの宏壮ぶりで優美な曲線を描いている鋼橋があります。橋の近くの神社の名を冠した白鬚橋です。
昭和3年9月、大林組の手により着工、同6年6月に完成しています。このころ、期を画すように幾つもの大型の近代橋梁が各地で架けられていますが、中でもこの鋼橋のその伸びやかに躍動するプロポーションは傑作の一つに数えられています。工法と美意識のみごとな融合といってよいでしょう。
このあたりにはもと渡し舟がかよっていたそうです。それが大正3年頃、民間で木造橋を架け、渡り賃をとるようになっていました。大正14年、当時の東京府がこれを買収、このころから始まった都市計画事業の一環として架け変えを行いました。橋台は沈函、今でいうRC造のケーソン、橋脚は井筒式、すなわちRC造ウェルで、コンクリート使用量は10,933m3であったと記録が伝えます。現在のシステムとほとんど変わらないといってよいでしょう。しかし、当時としてはわが国に導入されたばかりの最新式の架橋技術だったのです。ただ、1台に2個沈設されたケーソンには1個につき23mもある72本の米松の杭が打ち込まれていて、それが時代を物語っているといえます。
太古、人類が橋を知ったのはどんなきっかけだったのでしょうか。紀元前2,600年頃、エジプトの初代王メネスがナイル川に石造の橋を架けたと伝えられています。橋もまた文明を計る一つの尺度となるのでは。ヒトが火を発見し、いま原子力の火をかかげるまでになっています。そして橋も海を渡すまでになりました。21世紀を迎え、私たちはこれからどんな橋を架けていくのでしょうか。
大林レポートNo.23(昭和61年発行)より
※ウェブへの掲載にあたり一部編集しています
【白鬚橋】
竣工:1931(昭和6)年
住所:東京都墨田区堤通~台東区橋場、荒川区南千住