人間の食感覚の進化、食環境の変化とこれからの食

日下部裕子

大学4年の時に卒論のテーマとして味覚を受け取る仕組みを選んだのがついこの間のように感じるが、気が付けばもう25年以上も味覚の研究を行っている。味覚を含め、抹消感覚の研究で面白いと思うのは、何と言つても進化である。それぞれの生物を取り巻く環境に伴って、感覚器官はその性質をダイナミックに変えてきた。味覚でいうならば、昆虫は口だけでなく足先でも味を感じることができるし、魚はひげでも味を感じることができる。味を受容する器官である味蕾(みらい)が足先やひげに存在しているからである。

人間にとって味覚は、口の中に入れたものの質を判断するための感覚であるが、これらの動物にとっての味覚は、食べ物を口にする前に食べられるかどうかを判断するためのものでもある。進化によって大きく変化するのは味蕾の位置だけではない。味蕾は味細胞という味を受容する細胞が数十個集まっている器官で、味細胞の先端には味覚センサーである味覚受容体というタンパク質分子が位置している。センシングすべき物質は動物の種によって異なるため、受容体もそれに応じて進化する。例えば、ネコは肉食で炭水化物を必要としないが、味覚受容体もそれに合わせて進化しており、甘味を感知する受容体が途中で壊れた形になっている。また、魚類にも甘味受容体はない。甘味受容体と似た構造の受容体が存在しているが、アミノ酸を受容する。考えてみれば、自然界で甘味を呈する糖分は、果実、樹液、はちみつなどに含まれており、いずれも地上に存在するものである。水中での栄養源は何と言つてもアミノ酸なので、種による受容体の変化は理にかなったものである。

味覚受容体が初めて発見、存在が証明されたのは2000年と比較的最近のことで、その後、さまざまな種の味覚受容体が明らかにされてきた。新しい知見がでるたびに、進化に伴う食環境の変化や肉食・草食といった食性が、味を受け取る仕組みそのものを変化させてしまうのだと実感してきた。そして、人間にとっての第二次世界大戦後の食環境の大きな変化は何をもたらすのだろうかと思いを巡らせる。

味覚器のシステム:味は、その種類によって別々の細胞で受け取られ、脳へ伝達する過程で統合されていく。この仕組みはどの動物も共通のものだが、ほ乳類は舌の先と奥で味蕾の密度が異なる点で独特である。舌の先には、茸状乳頭中に数個含まれた味蕾が広く点在し、口の中に入った食べ物の質を瞬時に判断する。一方、舌の奥には、味蕾が数10〜100個集まった葉状乳頭と有郭乳頭が列をなして存在する。これらは赤ちゃんが乳を吸うと母乳があたる場所だと言われ、口の中の食べ物の価値を判断する最後の砦であり、複雑な味をしっかりと感知する

日下部裕子

1970年東京都生まれ。1998年、東京大学大学院農学生命科学科修了。農学博士。同年、農林水産省食品総合研究所(現所属の前身)に入所。2016年より現職。大学4年から一貫して脊椎動物の味を受け取る仕組みについて研究を続けている。著/編書に『味わいの認知科学』(和田有史と共同編集)。

この記事が掲載されている冊子

No.59「農」

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