人間の食感覚の進化、食環境の変化とこれからの食
日下部裕子
ネズミの食行動
味覚受容体の発見や証明といった基礎的な実験は、たいていの場合、実験動物を用いて行われる。いわゆるハツカネズミのマウスを用いることが多く、私もしょっちゅうハツカネズミを飼育している。マウスを飼育していると、人間の食生活との違いを思い知らされる。餌箱にはいつも溢れんばかりに餌をいれているが、食べ過ぎることなくおなかがいっぱいになれば食べるのを止める。もちろん餌が人間の食事のようにおいしくはないことも原因かもしれない。そうだとしても、遺伝子が変異している疾患モデルか、無理やり太るような餌を食べさせない限り、肥満のマウスを見ることはない。体に必要なものが摂取できるかを判断する能力がとても高いのだ。
例えば、マウスに人工甘味料で甘く味付けした水を与えると15分くらいは好んで飲むが、その後は飲まなくなってしまう。一方、砂糖水はずっと好んで飲む。これは、人工甘味料で甘くなった水を飲んでも血糖値が上がってこないことを察知し、カロリーを得られないと判断するからだと考えられている。同様に、カロリーのない油脂の代替物でも同じような行動を起こす。これらを見ると、マウスの食嗜好は体調に依存する部分が多く、体が必要とするものをおいしいと感じている、つまり、体と心のバランスがとれていると考えられる。
人間への進化で何が変わったか
ブリア・サバラン著の「美味礼賛」(岩波文庫)の冒頭にアフォリズムがあり、「禽獣は喰らい人間は食べる」と記されている。確かに人間の食は独自に培ってきた文化でもある。他の生物とは異なり食環境に対して受動的なままでいることを止め、自らの手で食環境を大きく変えてきた。
一つ目は農業である。人間以外の動物は、他の動物を捕獲して食べたり、自生する植物を食べたりするのみにとどまっている。つまり、周りの環境によって食物が限定されることになる。人間は農業や畜産業などによって自ら食物を生産することを始めた。これにより、自分たちの必要とする食物を多く手にすることができるようになった。また、育て方や品種同士の掛け合わせによって自らの嗜好に沿ったもの、例えば苦味やえぐ味のような不快な味をなるべく抑えたものを嗜好(しこう)するようになった。また、農業にいそしみ調理する生活は、食事を個から集団のものに変化させた。集団で時間を決め、皆で同じメニューを食べることになったのである。家族で会話しながらの食事は生活の質に欠かせないが、食事を提供される側は、何をどのくらい食べるべきかを考えたり感じたりする作業を一部放棄することにもなった。
二つ目は調理加工である。道具を使って食べづらい箇所を取り除き、湯でこぼすことで不快な味の成分を除去する方法を編み出した。また、発酵などの酵素反応を人工的に行うことで、嗜好性の高い食べ物を生み出した。
食環境の変化に人間の脳機能の進化が加わった。前頭葉が顕著に発達し、ものの名前と質を対応付けて記憶することができるようになった。言葉と食材や食事が紐(ひも)づけされるようになったことから、人間は食べる前にその味や香りを想像して期待する力を持ち、期待に即した味が得られると非常に大きな幸福感を得ることになった。これは報酬効果と呼ばれる作用である。報酬効果は諸刃の剣で、モチベーションを維持するのには有効であるが、その一方で、体が必要とするか否かに関わらず起こってしまう。よって、人間にとっての体調と食嗜好の関係は、もはや体が必要とするからおいしい、といった単純な話ではなくなり、体調を無視して食べることが往々にして見られるようになった。それでも人間は、体にとって必要なものが得られる食材はおいしい、という基本的な感覚を維持してきた。人間の食環境は他の動物と同様に、基本的に飢餓状態にあることが多く、食べることは不足している栄養の補充と、未来に起こるかもしれない飢餓に備えての備蓄にあったからである。
日下部裕子
1970年東京都生まれ。1998年、東京大学大学院農学生命科学科修了。農学博士。同年、農林水産省食品総合研究所(現所属の前身)に入所。2016年より現職。大学4年から一貫して脊椎動物の味を受け取る仕組みについて研究を続けている。著/編書に『味わいの認知科学』(和田有史と共同編集)。
No.59「農」
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(2019年発行)