日本人と食、農業の歴史
原田信男
日本における農業の始まりは、かつて弥生時代からだというのが常識であった。しかし、その後の考古学の発達により、すでに縄文時代に農耕が営まれていたことが明らかになった。遺跡のうち、水田址は残るが、畑地の跡は検出されないし、電子顕微鏡による分析が行われるまでは、肉眼による種子の確認が難しいという事情があった。しかし、それ以上に研究者の眼がコメ以外の作物栽培に向かなかったことから、日本における最初の農耕は稲作であるという観念が支配的だったためである。
ただ農耕の歴史からみて、いきなり弥生時代に、栽培の難しい稲作から始まるというのは、常識的にみてもおかしかった。それゆえ貯蔵庫や炉辺の土を水で攪拌して浮いた軽い種子を分析するフローティーション法が開発されたほか、近年では土器に残された圧痕の分析から、アズキやダイズなどの豆類のほかアワ・キピなどの穀類が、すでに縄文時代に盛んに栽培されていたことや、岡山県などの一部ではイネ(陸稲)が栽培されていたことも知られている。氷河期が終わって温暖な時代に生きた縄文人は、狩猟や漁撈(ぎょろう)あるいは採取とともに、農耕を行いながら食料を確保していたのである。
こうした縄文農耕の伝統の上に、縄文晩期に水田稲作が朝鮮半島から北九州付近に伝わり、弥生時代になって本州や九州・四国に広まっていった。また、おそらくこの時期にコムギやオオムギも伝えられ、ウメやモモなどの栽培果樹も到来したとされている。いずれにしても水田稲作という技術は、朝鮮半島からの渡来人によってもたらされたもので、彼らと縄文人との混血によって今日の日本人が生まれたと考えられている。そしてハイレペルな水田稲作は、日本社会に大きな変革をもたらすところとなった。
栄資価が高くて食味に優れ、しかも生産性の高いコメは、人口支持力が大きいことから社会的剰余を生み出し、農業以外の仕事に専念する人々を抱えることが可能となって、いわゆる社会的分業を成立せしめた。それゆえ中国史書に"分かれて百余国を為す"とあったように、小さなク二が生まれ、さらには"倭国大いに乱れ"とも記されたことから、社会的剰余をめぐって戦争が始まっていたことが窺われる。いずれにしても朝鮮半島からもたらされた水田稲作によって、日本社会は新しい道を歩み始めたのである。
その後の古墳時代における古墳の造営は、水田造成技術と結びつくもので、各地で豪族の下に結集した人々の力によって、農業生産力はさらなる向上を遂げた。ちなみに、この時期に朝鮮半島から牛馬が渡来したことも、その発展に大きな頁献を果たした。もともとモンスーンアジアに広がるコメの文化は、魚とブタをセットとする食生活を基本とするもので、弥生時代以来、日本でもブタが飼われていたが、古墳時代ころからその飼育が減少に向かう。これは繊細な生育条件を必要とするコメの栽培時に、稲作民はさまざまなタブーを産み出してきたが、とくに日本ではコメの栽培期間に肉食をすると、稲作が失敗すると信じられていたためであった。
古墳に象徴される王たちをまとめ上げたヤマト政権は、やがて統一的な古代律令国家を成立させたが、天武天皇4(675)年には、いわゆる肉食禁忌令が発布された。これは厳密には殺生禁断令とすべきで、肉食禁止の対象はウシ・ウマ・イヌ・ニワトリ・サルの5種に限られ、日本人がシシ(宍)として食べ続けてきたイノシシとシカ(カノシシ)が外されている。また禁止期間は4月から9月までの稲作期間であり、他のさまざまな政策との関連からみても。これは仏教思想の影響とするよりも、稲作推進のために特定動物の殺生と肉食を禁じた法令と解釈すべきだろう。これによって直ちに肉食が行われなくなったのではなく、これを契機に肉食を穢れとする意識が高まったことで、徐々に人々の口から遠ざけられていった。
原田信男(国士舘大学21世紀アジア学部教授)
1949年栃木県生まれ。明治大学文学部卒。同大学院博士後期課程修了。史学博士。札幌大学女子短期大学を経て現職。ウィーン大学日本学研究所、国際日本文化研究センターなどの客員教授を歴任。1989年『江戸の料理史』でサントリー学芸賞を受賞。著書に『歴史のなかの米と肉』『中世村落の景観と生活』『江戸の料理と食生活』(編著)など多数。
No.59「農」
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(2019年発行)