日本人と食、農業の歴史
原田信男
ところで行政村落では、徹底した文書主義が採られたことから、村落の指導者層のリテラシーが高まり、各地に多くの在村文化人を生み出した。彼らは農業枝術の研鑽に務め、それぞれの地域ごとの条件を考慮しつつ、試行錯誤を繰り返しながら、農業の知識を結晶した膨大な数の農書を成立させた。農民たちは、生産物の一部を祖税として収めながらも、農業の質的向上を目指して、知識・技術の体系化を自らの努力で実現させたのである。それゆえ稲作でみれば、近世末期には、これを2000年前に伝えてくれた朝鮮半島よりも、はるかに高い稲の生産力を誇るに至り、日本の苗代の播種量は2分の1で允分だった。
ただ、それでも近世には、しばしば飢饉が勃発している。もちろん冷害や火山活動など自然現象による不作や凶作も確かに存在したが、その要因を日本全体で眺めてみると、必ずしも自然的要因に基づくものばかりではなく、社会的な事情によって、その被害が甚大化した場合も多い。たとえぱ凶作の予兆があると、米商人は米価の釣り上げに走った。さらに彼らは、この時にこそと、大名ヘ貸付けた金額のコメでの支払いを要請するため、食料の乏しい領内からコメを供出させる飢餓移出がしばしば行われた。つまりコメの流通が政治・経済約に締め付けられたことが、肌饉の主な原因でもあった。
一方、室町期に完成をみた日本料理は、魚介と根菜・野菜を中心とし、コンブとカツオなどから抽出した出汁を基本に、味噌や醤油さらには酢や味醂という発酵調味料を多用して、独自の味覚体系を創り上げた。そして近世に入ると、料理 屋の発達と料理本の出版および発酵調味料の大量生産という3つの要素に支えられて、自由な料理文化の著しい展開がみられた。そうしたなかで近世後期には、大都市近郊の農村地帯においては、食文化産業の要請に応えた農業生産が行われた。
すでに中世後期の村々でも木綿の栽培を行っていたが、近世に入ると都市の灯明用としての菜種の栽培も加わるなど、小商品生産農業が活発化していった。とくに江戸市中に料理屋や屋台が立ち並ぶようになると、その食材の供給を近郊農村が担うようになる。江戸で人気の高いウドンやソバは、水田農業に不向きな武蔵野台地の畑地で盛んに小麦や蕎麦の栽培を行ったことで消費が支えられた。また江戸の近郊農村では、付加価値を高めるために、それぞれの土壌に適した野菜の提供に生産を特化した。
たとえば、練馬では大根作りが盛んとなり、これを沢庵漬けとしても江戸へ出荷した。小松川では葛西菜を改良して小松菜を作り出し好評を得た。このほかにも谷中生姜・千住葱・吉祥寺独活・砂村茄子・滝野川の人参と牛蒡・亀戸大根・早稲田茗荷・目黒の筍・内藤南瓜などが名産として知られた。さらに高級料亭の需要に応えるために、江戸東部の村々では、障子に油を塗ってビニールハウスのような施設を作り、旬を早める促成栽培を行っていた。いずれにしても近世中期以降には、新田などの耕地開発は停滞を迎えるが、代わりにこうした小商品生産のための農業が高度に発展していたとみてよいだろう。
ただ、こうした食文化の高まりと、これを支えた農業活動は、倹約を旨とし奢侈を禁ずる幕府の改革政策期には、大いに抑圧されるところとなった。江戸の食文化は、17世紀後半の宝暦~天明期と19世紀前半の文化・文政期に、大きな開花期を迎えたが、これらは享保・寛政・天保の改革期の谷間にあたる時代で、田沼政治と大御所政治における消費経済の推進による成果であった。そして文化・文政期に、日本の料理文化は最高潮に達したが、天保の改革は失敗に終わったものの、明治維新に向けた政治の季節が始まると、その発展には停滞が生じた。
原田信男(国士舘大学21世紀アジア学部教授)
1949年栃木県生まれ。明治大学文学部卒。同大学院博士後期課程修了。史学博士。札幌大学女子短期大学を経て現職。ウィーン大学日本学研究所、国際日本文化研究センターなどの客員教授を歴任。1989年『江戸の料理史』でサントリー学芸賞を受賞。著書に『歴史のなかの米と肉』『中世村落の景観と生活』『江戸の料理と食生活』(編著)など多数。
No.59「農」
日本の農業は、就業人口の低下、高齢化、後継者不足、不安定な収入など多くの問題を抱え、非常に厳しい状況に置かれています。その一方で、「スマート農業」「農業ビジネス」あるいは「稼ぐ農業」といった標語が現実味を帯び始めています。
現在3Kの代表格といわれる農業は、今後の取り組み方によっては最高の仕事場になるかもしれません。また、環境を破壊することもなく、人々の豊かな食生活を支える中核施設となる日が来るかもしれません。
本書では「農」にまつわる現状を解明すると共に、現在の発展のその先の姿を考えてみました。
(2019年発行)